またまたFIRE失敗のお話
またまた、FIRE後にサラリーマンに戻る話ですが、
私個人は一度たりとも、いや、一瞬でさえ思った事がない、
そんな理由でFIRE生活を捨てる方の記事がありました。
該当箇所は以下になります。
"朝起きても、その日にどうしてもやらなければならないことはなに一つありません。平日の昼間、カジュアルな服を着て街を歩くと、スーツ姿で忙しそうにしている同世代のビジネスパーソンとすれ違います。FIREを始めたころは「君たちは労働しているのに、俺はいまからマグロ定食を食べるためだけに三崎まで行くんだ」と優越感に浸っていました。しかしこのごろは、彼らが社会の歯車として躍動している姿をみるたびに、「自分は社会から必要とされていない、ただの余剰人間なのではないか」という疎外感に苛まれるようにまでなっていきました。” (引用元) 「FIREなんてするんじゃなかった!」48歳で資産2億円の元会社員父、早期退職当初は汗水たらして労働する人を尻目に悦に浸るも…“16歳息子の聞き捨てならない一言”を機に、サラリーマンへ復帰した日【FPが解説】
この文章には2か所ほど、私から見ると違和感がありますので、
本日はこの点について述べてみたいと思います。
社会の歯車として躍動?
私も平日の昼間にカジュアルな服を着て街を歩き、
スーツ姿で忙しそうにしている同世代のビジネスパーソンとすれ違うことはあります。
私はこの方のように、彼らを見て優越感に浸ることはありませんでしたが、
「いや~、大変だろうな...」と思うことはしばしばありました。
例えば、上司に説教をされているサラリーマンや、
電話で顧客に謝っているサラリーマンを見ると、
自分のサラリーマン時代を思い出して気分が悪くなりました。
流石に退職後に9年近く経過している今となっては、
そういった気分になることは随分とは減りましたが、
電話の内容がまさに自分が良く受けていたクレーム内容に酷似しているケースなど、
今でも胃酸が逆流するような経験をすることは皆無ではありません。
なので、スーツを着ているサラリーマンを見るだけで、
”彼らが社会の歯車として躍動している姿”
などと思うはずがありません。
そもそも、”社会の歯車として躍動”という表現はオカシイですよね?
自分は余剰人員と感じるか?
また、日々FIRE民として楽しく過ごしていれば、
自分が社会に必要とされていない余剰人員だ!
などという発想は頭の片隅にすら浮かんできません。
こういった発想というのは、
むしろ現役のサラリーマンの発想ではないでしょうかね?
私のサラリーマン時代の最後の5~6年間は特にそうなのでしたが、
閑職に追いやられていた関係上、
会社にとって自分が余剰人員であること、
クビに出来るものならしたいだろうな...
みたいなことを感じながら働いていました。
まあ、だからと言って疎外感に苛まれるようはなかったですね。
というのも、別に自分が尊敬も評価もしていない人からの評価が低かったらといって、
それで自分が気に病む必要は全くないからです。
発想はFIRE民とは逆ではないか?
この辺りをまとめてみますと、
・FIRE民からみたサラリーマンは「社会の歯車として躍動」どころか、
単に酷使されているだけ
・社会から必要とされていないという感情はサラリーマン時代のが遥かに強い
というのが個人的な感想ですね。
この方の発想と言うのは一般のFIRE民とは真逆という感じなので、
やはり参考にはならないな~としか言いようがないですね。
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